萨长同盟(さっちょうどうめい)是日本江户幕府时代末期(幕末)的1866年(日本庆应二年),在萨摩藩与长州藩间缔结的政治、军事性同盟。
幕末时日本诸藩当中,以萨摩藩和长州藩最具政治上的影响力。虽然当时双方都已经有武力讨伐幕府(讨幕)的打算,但因为西乡隆盛、大久保利通所属的萨摩,曾与会津藩(约为今福岛县会津)协力于1864年(元治元年)的八月十八日政变以及禁门之变中将长州势力逐出京都,并参与第一次长州征伐(幕长战争)使长州屈服,故双方对彼此都怀有敌意。
西乡隆盛
然而透过脱藩的原土佐藩士坂本龙马与中冈慎太郎的斡旋,先在主战派的长州藩重臣福永喜助宅中推动双方巨头进行会谈。虽然会谈开始前也曾出现被西郷隆盛拒绝的事态,但在1866年阴历1月21日(一说是22日)在京都小松清廉(小松带刀)邸(位于今京都市上京区),以坂本龙马为中间人,萨摩方的西乡隆盛、大久保利通、家老小松带刀与长州藩的木户孝允(当时还叫作桂小五郎)缔结内容六条的同盟之约,约定萨长双方在军事上互相提携、萨摩在朝廷工作方面帮助长州、萨长共同对抗一会桑政权等内容。
其他的萨摩方出席者还有岛津伊势、桂久武、吉井友实、奈良原繁。
后来以萨长两军为骨干的讨幕军于戊辰战争中击败幕府军,德川家在庆应三年十月十四日(1867年11月9日)大政奉还于天皇,开启了日后明治维新的契机。
盟约内容
萨摩藩军队的军装
戦いと相成候时は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪华へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事(开战后萨摩派二千余兵上京与驻京之兵合流,稳住京都大阪要害之地)
戦、自然も我が胜利と相成り候気锋相见え候とき、其节朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事(若长州看似有胜算时,萨摩负责向朝廷进言)
万一败色に相成り候とも、一年や半年に决して溃灭致し候と申す事はこれなき事に付き其间には必ず尽力の次第これあり候との事(万一看似要败,长州一年半载也不至于毁灭,这之间萨摩也必须尽力)
萨长同盟是なりにて幕兵东帰せし时は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事(与幕府的战争结束后,萨摩一定要对朝廷诉说长州冤枉)
兵士をも上国の土、桥、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を拥し奉り、正义を抗し、周旋尽力の道を相遮り候时は、终に决戦に及ぶほかこれなくとの事(若土佐、一桥、、会津、桑名等藩一定要怂恿朝廷、违背正义,再三进言也无用的话,只能决战)
冤罪も御免の上は、双方とも诚心を以て相合し、皇国の御为に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御为め皇威相辉き、御回复に立ち至り候を目途に诚しを尽くして尽力して致すべくとの事なり(洗清冤屈后,双方诚心实意为国家粉身碎骨尽力)